和食には欠かせない日本人の心の味、醤油。昨今ではフランス・イタリア料理にも隠し味として重宝されているという。まさに日本が世界に誇る、発酵のちからを活かした万能な調味料だ。
醤油の起源については諸説あるが、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)を発祥とする説が有力だ。13世紀なかごろ、紀州由良興国寺の禅僧、新地覚心が中国浙江省に渡り、径山寺味噌の製法を持ち帰った。この径山寺味噌製造の際に生じる上澄み液を発展させたものが、醤油と言われている。醸造が育む独特の香り、味、おいしさが評判を呼び、またたく間に日本全国へ広まったという。
古くはすべてひとの手でおこなわれていた醤油づくりも、時代とともに変化を遂げた。大量生産・大量消費の時代にあわせ、現在では発酵・熟成の手間をかけずに添加物で味つけされたものが主流となった。
しかし、醤油発祥の地では違う。伝統の味と製法を次世代へ残そうと、とり組む方がいるという。手間ひまを惜しむことなく、伝え残したいものとはいったいなにか? 醤油のふるさと、紀州・和歌山県を訪ねた。
新生醤油蔵が挑む。
失われかけた味の伝承
和歌山県湯浅町。ここに明治14年からつづく径山寺味噌屋から独立した、若い醤油蔵がある。それが、湯浅醤油(有)。代表を務める、新古敏朗氏(43歳)こそ、伝統の醤油づくりを残そうととり組むそのひとである。
「うちはもともと径山寺味噌屋時代から、醤油づくりも営んでいました。しかし、それが本業となったのは、わたしが先代から醤油蔵を受け継いだ平成14年。創業して日は浅いですが、昔ながらの製法で、伝統の味を守っています」
代々伝わる醤油蔵には、発酵・熟成を繰り返すことで育まれた、蔵つき酵母が棲みついている。これが醤油独特のうま味を醸しだす。
「原料となる大豆、小麦、塩は、純国産だけ。もちろん、化学調味料や着色料、防腐剤など添加物はいっさいつかいません。ひとの口に入るものを、安価な外国産に頼るわけにはいかない。コストや手間ひまはかかりますが、このやり方でなければ、この味や香りは生まれないんです」 原料や製法によって、味・風味が大きく変化してしまう、発酵の世界。そこには長年の経験と勘が求められるのだという。
「うちには先代のころからともに歩んできた、その道50年の蔵人(くらびと)*さんもいる。彼らの研ぎ澄まされた感覚こそ、うちの宝。次の世代へしっかり継承しなければなりません。大量生産があたり前の時代ですが、本物を求める消費者は必ずいます。この手間ひまを味わってもらえる、そんな醤油を残していきたいんです」
*蔵人……醤油をつくる職人のこと
遊び、学び、体験する。
世界にひとつのマイ醤油
さらに新古氏のとり組みは、本業だけにとどまらない。食育の一環として湯浅町の小学生を対象に、醤油づくりを教えているのだ。 「10年ほど前からはじめた、醤油づくり体験授業。醸造過程や微生物のちからをより身近に感じてもらうため、ペットボトルをつかって醤油のつくり方を教えています」
世界にひとつだけのマイ醤油をつくれることもあり、子どもたちは楽しみながら、伝統の味を学ぶのだという。
「醤油づくりは、2年間かけてじっくり学んでもらいます。原料の大豆を育てるところからはじまり、収穫した大豆に麹菌をつけ、発酵・熟成、撹拌、しぼり、といったすべての工程を、子どもたちに実際に体験してもらうのです」
しっかり面倒をみてあげないと、発酵がすすみ、ペットボトルが破裂することも。しかしこれも勉強のひとつ。微生物のちからを身をもって理解できる、貴重な体験なのだという。
「はじめはたかが調味料。でもそれが口に入るまで、途方もない苦労があることを子どもたちに知って欲しいんです」
本業の醤油づくりの合間、貴重な時間をつかっての授業。食育の一環とはいえ、なぜここまでできるのだろうか。
日本人の心の味は
大量生産には真似できない
「いまでこそ、醤油づくりを生業にしていますが、子どものころは、醤油が和歌山県の伝統産業だなんて知りませんでした。しかし大人になるにつれて、地元の醤油のおいしさ、伝統の大切さを理解し、このままではいけないと思ったんです」
自分のような子どもが増えれば、伝統の味は衰退していくばかりだと危ぐしたという新古氏。
「歴史を重んじ、伝統を守ることも大切です。しかし、未来に繋げようと活動しなければ、残せるものも消えていってしまう。その役割を担えるのは、醤油蔵を持つわたしたちしかいません。だからこそ、伝統製法に新しい発想を加えて、子どもたちに伝えていきたいのです」
今回、新古氏にお話をうかがい、伝統の味を次世代へ伝える苦労、大切さをあらためて感じた。そしてやはり、本物の味は大量生産には真似ができないということ。からだが安心する、日本人の心の味は、昔ながらの手間ひまかけた発酵・熟成なくしては生まれないのだ。