昔はどこの家庭でも見られたぬか床。親から子、孫へと代々受継がれるおふくろの味だが、いまでは臭いや手間といった理由から、ぬか床を持たない家庭がほとんど。幼きころに見た、ぬか床からキュウリやナス、ダイコン、ニンジンなど色とりどりの野菜がとり出される光景は、いまは古きよき日の思い出となってしまった。
そんな時代の流れとともに忘れ去られようとしている伝統の味を、絶やすまいと新たな取り組みに励む人びとがいる。日本の食文化を伝承するふたりの母を訪ねた。
日本全国へ繋がれ!
世田谷発「ぬか漬けマラソン」
東京都世田谷区、ここにぬか漬けの魅力をひとからひとへ伝える運動「ぬか漬けマラソン」を主宰する方がいる。それが、岡部奈尾江さん(39歳)だ。子どもを持つ若いお母さんたちを対象に、各地でぬか漬けの魅力を広めている。
「この運動をはじめるキッカケは、当時まだ1歳だった息子なんです。お弁当に入れてあげていたぬか漬けを、お友達にもおすそわけしてたみたいで。ある日、お母さん友達から『野菜嫌いのうちの子が、岡部さんのぬか漬けなら食べるの。つくり方教えて』なんて言われて(笑)。それがはじまりなんです」
幼児期、児童期に、発酵の香りを日常的に経験することで、子どもたちはぬか漬けが好きになると岡部さん。それがお母さんたちへ伝承する理由のひとつのようだ。
「いまは欧米食が主流の時代。家族の健康を守れるのは、やっぱり母親だと思う。手間ひまかけた本物の味を伝えることで、子どもたちが日本の健康的な食事に親しんでもらえると感じたんです」
成長期の子どもはもちろん、大人にとっても必要な栄養をふんだんに含むぬか漬け。だからこそ、ぬか漬けマラソンをつづけていきたいという。
「ぬか漬けは、おいしい、楽しい、からだにいい! 三拍子そろった日本の伝統食です。ぬか漬けマラソンが家庭の味を育む手助けになればと思っています」
困ったぬか床を無料診断!
「ぬか床ドクター」
つづいて訪ねたのは、福岡県福岡市にあるぬか床専門店「千束」。ここの店主下田敏子さん(62歳)は、ぬか床料理をお客さんにふるまう傍ら、全国から寄せられる“困ったぬか床”の無料診断もしているという。
「遠い先祖、そして祖母、母と代々受け継がれてきた200年床をもとに、お店をはじめてもう32年になるかしら。ぬか床料理の評判も手伝って、いつのまにやら、困ったぬか床を持ってくるひとがひっきりなしになってね」
なんとこれまでに1000件を超えるほどの相談が、下田さんには寄せられているという。
「相談内容は、ほんとうにさまざま。でも、案外みんな同じようなところでつまずいているの。だから、お店にぬか床を持ってきてもらって、色や香り、ぬか自体の味見もして診断していく。その状態をぬか床カルテに書きこんで、その後の様子もしっかり面倒みてあげるのよ」
ひとりあたりに30分以上かけて、親身になって話を聞いていくという。どうしてそこまでできるのだろうか。
「わたしも昔は、ぬか床に手を焼いていたひとり。だから、みなさんの気持ちがわかるのよ。困ったときは、いつも母がていねいに教えてくれた。そんな母の思いを受けて育ったから、全国のぬか床で困ったひとたちを放っておけないの」
そんなぬか床無料診断を通して、たくさんのひとに伝えたい思いがあるという。
見失ってはいけない。
ほんとうの豊かさとは?
「戦後の日本は、食事や環境、考え方まで180度変わってしまい、日本が誇るべき食文化までも見失ってしまった気がする。憧れや手軽さを求めた結果、欧米文化がもたらした健康への影響ははかりしれないでしょう。ほんとうの豊かさとはこころもからだも豊かになることだと思う。だから、この無料診断をつづけて、ぬか漬けという昔ながらの日本食を、この伝統の味を次世代へ伝えていきたいと思っているの」
方法は違えど、今回お話を伺ったおふたりに共通する“日本の伝統食を伝える”という思い。一見豊かな食生活を送るわたしたちが、いまほんとうに必要とするものは、手間を惜しまない昔ながらの食文化なのかもしれない。これこそが、健康へのいちばんの近道であり、先人から譲り受けた後世へ残すべきもの。発酵食品を見直すことで、あらためてその尊さに気づく。
遠い日の記憶の片隅にある、ぬか床を混ぜる母の手、あたたかい後ろ姿を思いかえし、わたしたちも同じように子や孫へと伝えていかなければならないのではないだろうか。