血管が若返る職業があるのをご存じだろうか? 素潜りでアワビやサザエ、海藻をとる漁を生業とする女性たち、海女さんだ。冷たい海水に潜って漁をする過酷な仕事のように見えるが、彼女たちの血管年齢は同世代にくらべて11歳も若いとの研究結果が発表された。なぜ海女さんの血管年齢は若いのか。その秘密を探るべく、海女のまち三重県・相差(おうさつ)町へ向かった。
※国立研究開発法人産業技術総合研究所調べ
50秒間の素潜りを1日100回
海女はからだが資本
現在、全国におよそ2000人いるとされる海女だが、ここ三重県の鳥羽・志摩地方にはその半数がいるという。なかでも鳥羽市相差町は海女の数が約100人と全国一多い。そして歳を重ねても薬を常用したり病気で寝こんだりする人がすくなく、80歳の現役海女さんまでいるという。
まずはさっそく、海女漁に同行させていただいた。9時ちょうどに船を出し案内してくれたのは、鳥羽の海を知りつくした地元漁師の中村益己さん(69歳)。
「たくさん捕るのは息が長くて勘のいい海女だけど、60歳で中堅といわれるくらい、経験も必要とされる。50秒間の素潜りを1日100回ほどくりかえすから体力はつかうし、健康じゃないと到底務まらない。このあたりの海女で病院通いしてるなんて聞いたことないよ」
走ることほんの数分。港の目と鼻の先が今日の漁場だ。果たしてこんな近くで漁になるのだろうか、そんな心配をよそにベテラン海女さんたちはザブンと勢いよく飛びこんでいく。水深は4m。海面を漂う3人のうちひとりが突然、海底に向かって頭から垂直に潜る。そして数十秒後、浮上するなり左手を高く上げた。手に光るのは本命のアワビだ。その後も順調に数を伸ばす。タンポ(円形の浮き)にくくりつけられたスカリ(獲物を入れる網)の中はアワビでいっぱいになっていく。
よくしゃべり、よく笑う。
ストレスとは無縁
陸に上がって「かまど」とよばれる海女小屋へ。火をおこして濡れたからだを乾かし、弁当を食べながら仲間と談笑する。ここ相差の海女さんたちはとにかくよくしゃべり、よく笑う。なかでもひときわ元気で明るい松井澄子さん(69歳)は海女歴50年以上。
「会社勤めやパートに出たら人間関係とかいろいろあるけど、海の中ではひとりきり。そして漁が終わったらこうしてたき火を囲んでみんなでおしゃべりするから、ストレスも溜まりません」
しかし漁に出るのは年間数十日程度。田んぼや畑、週末は旅館の手伝いなど陸仕事も意外に多い。そんな松井さんの健康状態は?
「年に一度の人間ドックでは、どこも異常なし。いたって健康体ですわ」
海女歴55年の中山茂代さん(70歳)の血管も若々しい。
「朝は5時半に起きて朝食の準備、7時半には海女小屋に来ます。漁のない日も80坪の畑をひとりで手入れしてるので忙しいですよ。人間ドックは毎年受けてるけど、なにか注意されたことは一度もないですね。薬も飲んだことありません」
海女の仕事とたっぷりの海藻で
血管が強くしなやかに
2010年国民健康・栄養調査によると、60代女性の7人にひとりが糖尿病、そして4人にひとりが脂質異常症の疑いがあるという。高血圧にいたっては60代女性のおよそ6割というから、なんらかの異常がある人がほとんどである。ではなぜ、相差町の海女たちの血管はこうも若々しいのか。東京都健康長寿医療センターの原田和昌先生に話を聞いた。
「海女さんの血管年齢が11歳も若いのは、水に潜ったときの水圧によりANP(血圧改善ホルモン)が分泌されるからです。ANPが腎臓にはたらきかけると塩分を尿とともに排出し、さらにはストレスホルモンの分泌も抑えてくれるのです」
原田和昌先生
東京都健康長寿医療センター 副院長。循環器内科の名医として知られ、とくに高血圧の治療に定評がある
ANPはみぞおちより深く水に浸かることで多く分泌されるため、ぬるめの風呂に15分ほど浸かったり、プールでも効果はあるそう。さらに水中ウォーキングなど水圧のかかる状態での運動は相乗効果を生む。
「そして相差町の海女たちは日常的にミネラル豊富な海藻類を食べています。ミネラルは塩分を排出するので、高血圧を防ぐ効果が期待できます」
よくはたらき、海藻たっぷりの食事をとる。みなでおしゃべりしてよく笑うからストレスもない。こうした生活習慣のおかげで、相差の海女たちは無意識のうちに強くしなやかな血管を手に入れていたのだ。
「この土地に生まれたら自然に海があって、それが仕事になるんです。おまけに健康までいただけるなら、ありがたいことです」と中山さん。
海の神様に祈り、資源をとりつくさないよう多くの約束事のなかで太古よりつづく原初的な漁法。相差町の海女は海の恵みに感謝し、自然と調和することを決して忘れない、海に生きる女たちだ。
海女漁の歴史
海女の歴史は古く、縄文時代までさかのぼる。全国各地の遺跡からアワビ殻、サザエ殻、海藻類などが発見され、基本的な漁の形態や磯ノミなどの道具は太古よりほとんどかわらず受け継がれてきた。「魏志倭人伝」にも「倭人(日本人)は魚やアワビを好んで捕っている。水の深いところ、浅いところに関係なく皆潜ってこれを捕っている」と記述がある。